鎌倉・室町時代
8.鎌倉~室町時代
1192年(建久3年)に鎌倉幕府が開かれ武士が大きな力をもつようになりました。市域では、平安時代に出現したムラが引き続き営まれるほか国守遺跡・中神田遺跡であらたにムラが出現します。中神田遺跡・長保寺遺跡では、屋敷地を取り囲むと考えられる大規模な堀が見つかっています、堀に囲まれた屋敷に住んでいたのはこの地に勢力をもつ武士であろうと思われます。
1333年(元弘3年)、鎌倉幕府が倒れた後、京都の足利尊氏(あしかがたかうじ)を中心とする勢力(北朝)と、奈良県吉野の後醍醐(ごだいご)天皇・楠正成(くすのきまさしげ)を中心とする勢力(南朝)に分裂します。そして、それぞれが別の天皇を擁立し、内戦状態となります。南北朝時代と呼ばれるこの時代は、「四条畷の戦い」で知られるように北河内地域はこの内戦の戦場となりました。市域の村々もこの戦乱に巻き込まれたと思われます。前述の長保寺遺跡の屋敷地を囲む堀が埋められるのもこの時期で、埋土の中からは火を受けた礎石が見つかっており、このムラが戦乱に巻き込まれたことを示唆しているようです。また、池田二丁目の喜多家墓所に所在する五輪塔の一部(地輪)には「建武二年」(1335)の銘が刻まれています。
1392年(明徳3年)南北両朝は講和し、足利氏は京都に幕府を開きます。この時代を室町時代といい、しばらく平和な時代が訪れますが、1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こり、再び内戦状態となります。特に、河内国は守護の畠山(はたけやま)一族の内紛で激しい戦闘に巻き込まれました。畠山義豊(よしとよ)は畠山尚順(ひさのぶ)に破れ、靹呂岐(ともろぎ)荘で自刃しました。
この後、戦国時代となり、三好長慶・織田信長・豊臣秀吉が次々と市域を支配しました。秀吉は大坂城を築き、天下統一を成し遂げると、文禄堤(ぶんろくつつみ)と呼ばれる淀川堤防の工事を行いました。
十三仏板碑(じゅうさんぶついたび)
板碑は、宝塔(ほうとう)・五輪塔・笠塔婆(かさとうば)などとともに石製の仏塔(卒塔婆(そとば))の一種です。板碑には供養される主尊(しゅぞん)(本尊)の種子(しゅじ)(梵字(ぼんじ))あるいは仏像・題目が彫られています。十三仏板碑は、初七日から三十三回忌に至る13回の供養・仏事を司る13の仏・菩薩(ぼさつ)・明王(みょうおう)を主尊とするものです。十三仏板碑には、主尊が種子のものと像容で表現されるものの二者があります。14世紀(鎌倉時代末~南北朝時代)に出現すると考えられ、室町時代に数多く作られています。大阪府内では30基が知られますが、26基が半肉彫り図像(像容)のもので、室町後期(16世紀)~近世初頭(17世紀)に造立されています。このうち、北河内には17基が現存し、奈良県側のものを合わせて生駒山系に約50基が認められます。
1) 秋玄寺の十三仏板碑 (寝屋川市指定文化財)
寝屋川市高宮二丁目8番18号
秋玄寺の十三仏板碑は、総高114センチメートルで、頂部は前に反り出しています。舟形の塔身部は幅5センチメートル程度の輪郭部分をもち、内部は一段彫り下げられています。内部に下部より3・3・3・3・1で蓮座上に乗る諸仏が配されており、上部に4本の瓔珞(ようらく)を下ろしている天蓋(てんがい)が表現されています。下部には、右から「壽□、道□、道□、道弥」の4名の戒名が刻まれています。また、輪郭部の左右の下部には、それぞれ「逆修(ぎゃくしゅう)□□□為也」、「永禄十三年 庚午 □月十三日(1570)」と刻まれています。板碑は現在自然石の台座の上に置かれており、前には水船が置かれています。
2) 大念寺の十三仏板碑 (寝屋川市指定文化財)
寝屋川市堀溝二丁目9番4号
大念寺の境内墓地には大小2基の十三仏板碑があります。
向かって右側(南側)のものは、粗質な石材のため風化が著しく、頂部が欠損しています。現存部分の高さは90センチメートルをはかります。塔身部は上部の最大幅が45センチメートル、下部の幅が38センチメートルをはかり、下部はややすぼまった形状です。また、上部は前に反り出しています。十三仏は半肉彫りの像容が下部より3・3・3・3・1に配されていますが、風化が著しく像容の細部は明らかでありません。頂部欠損のため天蓋部分の有無についても不明です。下部には11行文の銘文があります。中央に「□□衆廿人」とあり、左右に五行づつ2段に20名の法名が刻まれているようです。像容の左側に「慶長十四年 己酉 十月十五日(1609)」と造立年月日が刻まれています。
向かって左側(北側)の大きなものは総高115センチメートルをはかります。幅は上・下部ともに60センチメートルで変わりません。左(北)側に生えている樹木の根の影響で右(南)側に傾いています。舟形の塔身部は幅5センチメートル程度の輪郭部分をもち、内部は一段彫りくぼめられています。内部には蓮座上に乗る仏像が下部より3・3・3・3・1に配され、その上部に4本の瓔珞をもつ天蓋が半肉彫りで表現されています。遺存状態は右側のものより良好で、像容は比較的明瞭です。下から2・3・4段目の蓮座はつながったように表現されています。
下部には9行にわたって法名が刻まれていますが、中央の「本願人道永」を除くと判読困難です。右側の法名は「妙善」「妙圓」「妙永」「妙玉」「妙西」が判読されており、3段8行に24名の法名が刻まれていたと推測されます。輪郭の下部の左右にはそれぞれ「六月十五日」、「慶長十六年 辛亥(1611)」と造立年月日が刻まれており、右側の十三仏板碑より新しいものであることがわかります。
喜多家墓所の五輪塔 (寝屋川市指定文化財)
寝屋川市池田二丁目7番31号
池田二丁目の喜多家の墓所には、一辺75センチメートル、高さ46センチメートルの花崗岩製の石があります。この石には上面の中央に浅い円形の孔(あな)があけられており、五輪塔の一部(地輪(ちりん))であることがわかります。一面には5行にわたって銘文が刻まれており、1335年(建武2年)11月1日に河内国茨田郡池田郷の村人達によってつくられた墓地(惣墓)の中心に建てられた、総供養塔であったと考えられます。市域西側の地域での村の成立や、この時期の村と墓地の関係を示す重要な資料です。
なお、刻まれている年号の「建武二年」は石造物に残っているものでは、市内最古のものです。
更新日:2021年07月01日