平安時代
7.平安時代
都は一時期長岡京に移った後、794年(延暦13年)平安京に移りました。この都の移動によって、淀川は物資の運搬などの重要な交通路となり、北河内は一転して重要な地域として注目されるようになりました。市域では、高柳2・3丁目の高柳遺跡・上神田の神田東後(かみだひがしご)遺跡といった西側の茨田郡に含まれる平野部で新たにムラが出現します。また、高宮遺跡や昭栄町~出雲町の長保寺遺跡でも引き続きムラが営まれているようです。
高柳遺跡では大型の建物が見つかっており、石製帯飾りや中国製の陶磁器が出土していることから、有力な地方豪族が住んでいたと考えられます。
平安時代後半には、皇族・貴族・寺社の領地である荘園(しょうえん)が増えていきます。本市では郡(こおり)・靹呂岐(ともろぎ)・点野(しめの)・葛原(くずはら)・池田・仁和寺(にわじ)・高柳といった淀川流域の茨田郡に数多くの荘園が成立しました。
市内の式内社(しきないしゃ)
大杜御祖神社
高宮神社
大杜御祖神社(寝屋川市高宮二丁目15番1号)
高宮神社(寝屋川市高宮二丁目11番6号)
細屋神社(寝屋川市太秦桜が丘26番地)
式内社の「式」は『延喜式』 (えんぎしき) を指し、「延喜」とは醍醐天皇の時代で、平安時代の中頃 901年~ 923年の間にあたります。『延喜式』は50巻からなり、主に「律令」(りつりょう)という古代の法律を実際に行うための細かい規則が記されていて、その中のいわゆる『神名帳』には全国の神社の名前が記載されています。記載されている神社数は2,861か所、祭神3,132座にのぼりますが、市内では大杜御祖神社・高宮神社・細屋神社の3社が記載されています。これらの神社は、10世紀頃には神社として存在し、中央に知られていたことを意味しており、古い由緒ある神社と言えるでしょう。
市内の3社の式内社のうち2つが高宮にありますが、地区の中に式内社が2つもあるのは珍しいことです。祭神をみるとこの2社は無関係ではなく、大杜御祖(おおもりみおや)神社は天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)を祀り、高宮(たかみや)神社はその子である天剛風命(あめのこかぜのみこと)を祀っており、親子関係にあたります。大杜御祖神社の「御祖」というのも、このことからきているのでしょう。
打上川治水緑地の北側に木々に囲まれた小さな祠がひっそりと佇んでいます。この祠が細屋(ほそや)神社です。この祭神は明らかではありませんが、「火祖也」「星屋」と記している記録があり、「火祖」は太陽を意味し、星も天体に関係するものなので、天神を祀っていたのではないかと思われます。
弘法井戸
打上の弘法井戸
田井の弘法井戸
国松の弘法井戸
湯屋が谷の弘法井戸
打上の弘法井戸(寝屋川市打上)
田井の弘法井戸(寝屋川市緑町40番)
国松の弘法井戸(寝屋川市国松町11番8号)
湯屋が谷の弘法井戸(寝屋川市郡元町12番)
空海は、774 年に讃岐国(現在の香川県)に生まれました。2年間中国で真言密教(しんごんみっきょう)を学んだ後帰国し、紀伊国(現在の和歌山県)の高野山金剛峯寺を創建し、後に弘法大師と言われました。
空海は水なき所に池を掘り、橋なき所に橋を架け、道なき所に道をつけ、食の貧しい者には食を得る方法を教え、病む者のためには良医となり、人々の苦しみを解決しようとしました。
こうしたことから、弘法大師にまつわるお話は全国各地にあり、「弘法井戸」と呼ばれる井戸もいたる所に存在します。市内にも打上・田井・国松・郡(湯屋が谷=やがたん)の4か所に弘法井戸があります。交通機関が発達していなかった時代に、彼自身が全国を巡ってこれらの偉業をすべて成し遂げたとは考えにくいのですが、多くの人々に信仰されていたので、このように彼の名前があちらこちらに登場するのでしょう。
打上の弘法井戸は東高野街道沿いにあり、現在でも清水がわずかながら湧き出ています。この井戸はいくら日照りが続いても枯れることはなかったと言われており、東高野街道を通って弘法大師ゆかりの高野山へお参りする人々ののどを潤していたことでしょう。
市内にいくつかあった井戸も、現在ではほとんど使用されている姿は見られなくなってしまいました。
更新日:2021年07月01日