令和4年11月号 「一生涯画家でありたい」 安益耕平さん

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シルクスクリーンの作品『Best field』と

ニューヨークで描いた「Crossing」

「一生涯画家でありたい」

()()(こう)(へい)さん(76歳・菅相塚町)

高校2年生まで絵画とは無縁でした。運動が好きな理系の生徒だったという安益耕平さんは、ひょんなことから芸術の世界を知り、作品はアメリカの美術館にも収蔵される「異色の画家」として活躍してきました。

気晴らしで彫刻習う

中学校ではバレーボールなどの部活で活躍。「船乗りになりたい」と商船大学を目指した府立高校3年生のとき、受験勉強の合間に習ったのが彫刻でした。「気晴らしのつもりでした」が、請われるままに彫刻家のアシスタントに。同じ頃、前衛美術集団の画家と親交を持つようになり、未知の世界を歩み出しました。

19歳のときに入学した東京芸術大学を中退。大阪市立美術館付属研究所でデッサンを学び、昭和43年、若手の彫刻作家3人と造形工房を立ち上げました。

30歳で大阪画壇にデビュー

テレビの受信契約数が伸びていた時代。アルバイト学生を雇い、カラーテレビなどの景品として女神像など3万点を超える彫刻物を受注しましたが、油彩画など自身の作品は思うように売れませんでした。

「やめてサラリーマンになろう」。24歳のときに結婚していた安益さんが友人に相談すると、「何のために描いてきたのか」と説得され、作品を持ち込んでくれた大阪市内の画廊で初めての個展が実現。仲間の作家たちから「もっといい絵が描けるはずやと声をかけられ、やめるにやめられなくなりました」。

翌年、関西で活躍する画家たちのグループ展に出品し、30歳で大阪画壇にデビュー。木立の枝葉まで細密に描いた30号の油彩画『雪原』が評判となりました。

イタリアの画家に衝撃

真骨頂とする細密画は、日常的なものや風景が多いといいます。虫めがねでやっと分かるち密な絵を描くため布目のキャンバスに下地剤を塗り、表面をやすりで磨きます。

この下地作りで感化されたのが『ヴィーナスの誕生』で知られるイタリア人画家のボッティチェリです。「イタリアなどで3年間過ごしたとき、フィレンツェの美術館で見た下地の見事さに驚がくしました」。

45歳のとき、1日の睡眠時間が3時間という日本での生活を脱出。世界のアートの中心地のニューヨークにスタジオを構えました。「何気ない風景を一瞬にして清新な光景に変える」と評された作品はアメリカでも注目されました。

「無二の相棒」に誓う

アトリエがある寝屋川市の自宅は阪神・淡路大震災で被災し再建。平成28年6月の朝、その自宅のベッドで動けなくなり、脳こうそくと診断されました。筆を持つ右手が不自由になり、細密画が描けなくなりましたが、「必ず描ける」とリハビリに励み、少しずつ動くようになりました。

今年1月に妻の縫子(ぬいこ)さんが亡くなりました。生前、「私が働くから命をかけて描いた絵をお金に換えないで」と話していたといい、「妻は私の全てを理解して支えてくれた無二の相棒でした」と感謝します。

コロナ禍の前に準備していた絵画教室は開校できないまま。「細密画はまだ描けませんが、生涯画家でいたい」と、まずは指導者としての再出発を妻の遺影に誓っていました。

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更新日:2022年10月26日