飛鳥・奈良時代

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6.飛鳥~奈良時代

7世紀になると近畿地方では天皇やその側近を除くと古墳が築かれなくなります。奈良盆地の南部に政治を行う宮都が営まれ、政治のしくみが整えられます。この時代を飛鳥時代といいます。市域は茨田(まんだ)郡・讃良(さら)郡・交野(かたの)郡という3つの行政区域に分けられました。この時代の遺跡には高宮遺跡・国守遺跡があります。

また、この頃に朝鮮半島の百済国より仏教が伝えられ、日本各地で寺院が建設されました。高宮廃寺跡は、7世紀後半の飛鳥時代後半(白鳳時代)に建てられた古代寺院跡で、金堂と呼ばれる建物の前面の東西に塔を配置する薬師寺式と呼ばれる伽藍配置をとります。また、寺の西側では柵で囲まれた大型の建物跡が見つかっており、この寺を建てた豪族の屋敷ではないかと考えられます。また、古墳の見つかった三味頭遺跡でも白鳳時代の瓦が見つかっており、ここに讃良寺(さらじ)跡があったと推測されます。いずれの寺院もこの地を治めていた豪族が建てたものと考えられます。

710年(和銅3年)奈良に平城京が設けられます。市域では、奈良時代の遺跡としては池田西遺跡・長保寺遺跡をはじめ高宮廃寺跡・打上遺跡があります。

この時代には近畿地方を中心に条里と呼ばれる一辺約109メートルの正方形の水田の区画が設定されました。市域でも茨田郡内の郡(こおり)から田井・石津・国松にかけてと、讃良郡内の高宮・小路で東西南北にはしる水田の畦道や道路にその面影を見ることができます。

高宮廃寺跡(たかみやはいじあと) (国指定史跡)

高宮廃寺跡の礎石の中央に穴が開いている写真

寝屋川市高宮二丁目15番1号

高宮廃寺跡は、高宮の集落の東側の小高い丘陵上に鎮座する延喜式内社の大杜御祖(おおもりみおや)神社の境内を中心に広がっている古代寺院跡です。境内には壇状に高まった場所や礎石(そせき)があります。
昭和28年(1953)に大阪府教育委員会が現在の神社社殿東側の高まり部分の発掘調査を行い、この部分が塔跡であることがわかりました。また、出土した古瓦によって寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)にさかのぼることが明らかになりました。昭和54年(1979)に寝屋川市教育委員会によって、寺の範囲や伽藍(がらん)の確認のための発掘調査が行われ、仏像を安置する金堂(こんどう)、僧侶が説教や学問を行う講堂の位置が判明し、回廊と呼ばれる廊下が外側を巡っていることがわかりました。
これまでの調査によって、高宮廃寺の伽藍配置は、現在社殿の建っている部分を塔跡とすれば、金堂の全面の東西に塔が位置する薬師寺式と呼ばれる伽藍配置となります。同じような伽藍配置となる古代寺院には、奈良県の元薬師寺跡、柏原市の田辺廃寺跡が知られています。
出土した瓦より、高宮廃寺跡は白鳳時代(7世紀後半)に創建され、奈良時代にかけて営まれた後廃絶し、鎌倉~室町時代に大杜御祖神社の神宮寺として再建されたと考えられます。
なお、高宮廃寺跡の西側の高宮遺跡では、高宮廃寺が建てられる直前の時期の柵に囲まれた大型建物跡が見つかっており、高宮廃寺を建立した古代氏族の居住地と推定されます。

長栄寺の蔵骨器(ぞうこつき) (寝屋川市指定文化財)

角が丸い正方形の形をした長栄寺の蔵骨器の写真

寝屋川市長栄寺町6番4号

蔵骨器は、火葬した骨を納めるための容器です。昭和14年(1939)に長栄寺町の長栄寺本堂の真北の水田を発掘した際に、他の石造物と一緒に出土しました。蔵骨器は凝灰岩(ぎょうかいがん)という比較的柔らかい石で作られており、中央部に一辺30cメートル・深さ7.5cメートル(現寸)の方形の孔(あな)が開けられています。現在、長栄寺の本堂の縁の下に保管されていますが、出土後しばらくは雨ざらしの状態であったため表面は傷んでいます。このため、現状から蔵骨器の身の部分になるのか、蓋(ふた)になるのかはわかりません。
出土場所付近は、寺伝によると以前に(明治期?)「茨田親王塚(まんだしんのうづか)」とよばれる塚(現在は長栄寺の東北隅に所在)があった場所とされています。また、1864年(文久4年)の古図には茨田親王塚が寺の西北隅に描かれており、塚の位置はこの間に2回移動していることになります。蔵骨器は文久4年~明治期(?)に古図の位置(西北隅)から移動した場所(寺の真北)より出土したことになります。
長栄寺の付近では、古瓦が採集されており、古代寺院(高柳廃寺)跡の存在が推定されています。奈良時代以前の古代寺院と火葬墳墓についてはその関係が指摘されており、寝屋川市西部(茨田郡)の古代の様相を考える上で貴重な資料です。

伝・秦河勝(でん・はたかわかつ)の墓 (寝屋川市指定史跡)

竹林の横に中央に高さ2メートルあまりの五輪塔、五輪塔南側に一対の石灯篭が建てられている写真

寝屋川市川勝町2番

伝・秦河勝の墓は、秦山と呼ばれる寝屋川北岸の丘陵上に所在します。現状は宅地開発によって、住宅地の一角に一辺11.5メートルの方形の区画として残されていますが、以前は周囲は竹林でした。
中央に高さ2メートルあまりの五輪塔が立てられており、地輪の四面に秦河勝の事跡や五輪塔建立の経緯などが400余字で刻まれています。この碑文によると、現存する五輪塔は1649年(慶安4年)に再建されたものであることがわかります。
五輪塔南側に一対の石灯篭が立てられているほか、五輪塔の北東側には「正六位上兼右近衛府生秦武文」と刻まれた方柱状の塔が立っています。
秦河勝は、6~7世紀に秦氏の族長として聖徳太子を補佐し活躍したことが知られています。本市には、秦・太秦といった秦氏に関係する地名があり、本市と秦氏の関係を考える上で重要な資料です。

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更新日:2021年07月01日