江戸時代

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9.江戸時代

江戸時代になって政治の中心が京都から江戸に移った後も、大坂は「天下の台所」と呼ばれ経済の中心地として栄えました。市域は、大坂の近郊の農村地帯となり、米のほか菜種・木綿等の商品作物の生産が盛んに行われました。

この時代、市域は村ごとに京都淀藩主の永井氏とその一族、小田原藩主の大久保氏、旗本の片桐氏、大坂町奉行所及び大坂城代(じょうだい)といった領主のそれぞれの領地や幕府の直轄地となり、これらが複雑に入り組んだ状態で支配されていました。

また、江戸時代中頃以降、水田の開発が盛んになり、こうしてできた水田を新田と呼んでいます。市域では太間(たいま)・堀溝・萱島で新田の開発が行われました。1704年(宝永元年)にそれまで大阪府柏原市から北流して深野(ふこの)池(大東市)や新開池(東大阪市)に流れ込んでいた大和川を、堺付近へ流れる現在の流路に付け替える工事が完成し、旧大和川水系の川床や池の開発が大規模に行われるようになりました。大坂の商人の河内屋源七は、深野池の北側を開発し、ここを河内屋北新田としました。ここが現在の河北です。

淀川は江戸時代になっても1674年(延宝2年)の仁和寺切れ、1802年(享和2年)の点野仁和寺切れといった堤防決壊の大洪水をはじめ出水等が絶えませんでした。1885年(明治18年)の大洪水の後、1896年(明治29年)から淀川の改修工事が始まり、現在の堤防が築かれていきました。また、寝屋川・岡部川・讃良川でも土砂の堆積によって川床が周辺の土地より高くなる「天井川」となり、洪水の被害をもたらしました。このため、雨水を下流に排水するために水路や樋が作られましたが、その設置や管理をめぐって上流と下流の村の間では何度も争いが起こりました。

一方、河川は物資の運搬の主要な交通手段となり、淀川には大型の三十石船(さんじっこくぶね)が、また寝屋川・古川には年貢米や肥料となる糞尿を運搬する小型の剣先船(けんさきぶね)が活躍しました。淀川の堤防上の京街道は、東海道の延長として宿場や一里塚が整備されました。街道沿いの村々では、街道に沿って家々は軒を連ねていたようです。宿場は守口と枚方に設けられたため、市域では旅人が休憩する茶屋を除くと街道に関する施設はなかったようです。

こうした大都市近郊の農村の景観を、大阪のベッドタウンとして都市化が始まる昭和30年代まで保っていました。

正法寺(しょうほうじ)の梵鐘(ぼんしょう) (寝屋川市指定文化財)

青銅色の正法寺の梵鐘の写真

寝屋川市寝屋一丁目10番1号

正法寺の梵鐘は、山門を入って右側(東側)の鐘楼に吊るされています。鐘の大きさは、高さ110センチメートル・口径64.5センチメートルをはかります。
鐘に刻まれている銘文によると、慶長20年(1615)に石州(石見(いわみ)国)迩摩(にま)郡佐摩(さま)郷大森村(現在の島根県大田(おおだ)市)にあった覺法寺の鐘として大工(だいこう)(鋳造職人)の山根九郎左衛門によって鋳造され、その後、明暦2年(1656)に芸州安南郡広島(現在の広島市)にあった永照寺に移り、さらに昭和3年(1928)に謝徳堂に移ったことがわかります。その後、昭和37年(1962)に正法寺に移されました。本梵鐘は江戸時代の初めの慶長期のもので、現在残されているものとしては、市内最古の梵鐘です。
鐘は、池の間を上下2段に分けており、広い中の間を作っています。鐘の表面のみならず、鐘身の内面にまで所狭しと数多くの銘が刻まれています。特に法名や家名は602に上ります。また、草の間には簡素な唐草文が浮き彫りで鋳出されています。

大念寺(だいねんじ)の梵鐘(ぼんしょう) (寝屋川市指定文化財)

青銅色の大念寺の梵鐘の写真

寝屋川市堀溝二丁目9番4号

大念寺の梵鐘は、山門を入って左側(南側)、清滝街道(行基みち)に面して建っている鐘楼に吊るされています。鐘の大きさは高さ146.5センチメートル・口径92センチメートルで、市内最大の大きなものです。
鐘に刻まれている銘文によると、寛文10年(1670)に和泉州日根(ひね)郡嘉祥寺(かしょうじ)村(現在の大阪府泉南郡田尻町)の浄光寺の鐘として冶工(やこう)(鋳造職人)の白井氏九右衛門藤原正近と江野本長左衛門藤原家次によって鋳造され、その後昭和3年(1928)に大念寺に寄進されたことがわかります。
鐘の上部に鋳出されている「乳(にゅう)」と呼ばれる突起は、108個あります。この乳の数は室町時代の終わり頃から「百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)」になぞらえて、108個という数が流行しますが、本梵鐘もこうした当時の仏教思想をよく表していると考えられます。
草の間には細かい唐草文が施されていますが、全体に装飾の少ない素朴な大型の鐘です。
なお、鐘身には、戦時中の兵器生産を目的とした金属供出の際に、鐘の成分分析を行うために縦方向に6個の小円孔があけられています。

正立寺(しょうりゅうじ)の梵鐘(ぼんしょう) (寝屋川市指定文化財)

青銅色の正立寺の梵鐘の写真

寝屋川市黒原城内町16番17号

正立寺の梵鐘は、山門を入って左側(南側)の奥に建っている鐘楼に懸けられています。鐘の大きさは、高さ125センチメートル・口径68センチメートルをはかります。
鐘に刻まれている銘文によると、寳永4年(1707)に河州(河内国)茨田郡黒原村の正立寺の鐘として鑄物師(いもじ)(鋳造職人)の岸本仁右衛門尉藤原寛敬によって鋳造されたことがわかります。
鐘に刻まれている銘文には、陽鋳(ようちゅう)(浮き彫りに鋳出されたもの)と陰刻(いんこく)(彫り込まれたもの)の両者が見られます。池の間の各区には、撞座(つきざ)に対向するように左右一対の天人像が浮き彫りされています。撞座に直行する縦帯には雲台を伴った日文(太陽)と月文が同様に鋳出されており、また、草の間の各区には牡丹唐草文が鋳出されています。
全体に装飾性に富み、鋳上がり・意匠ともに優れた見事なものです。
なお、鐘身には、戦時中の兵器生産を目的とした金属供出の際に、鐘の成分分析を行うために縦方向に4個の小円孔があけられています。

野神(のがみ)さん

説明看板を持っている鉢かつぎ姫の形をした石像の右側に大きな岩にしめ縄が飾られ、野神さんが祀られている写真

池田川村の野神さん
(寝屋川市池田1丁目5番)

大きな岩にしめ縄が飾られ、岩の前には飲み物などが供えられ、野神さんが祀られている写真

池田下村の野神さん
(寝屋川市池田東町10番)

「乃が美」と掲げられた祠の写真

黒原の野神さん
(寝屋川市黒原城内町15番)

説明看板を持っている鉢かつぎ姫の形をした石像と桜の奥に祠がある写真

黒原の野神さん付近の風景

今ではもう見られなくなってしまいましたが、池田地区では毎年5月5日に「農神 (のがみ) さん」という牛駆 (か) けなどの農業的な行事が実施されていました。これについてはお話が残っています。淀川に沿った池田の地域は水害に見舞われることが多かったので、川筋に茨田堤を築いて農地を確保しました。堤ができた後、仁徳天皇 (一説では、茨田王) が牛に乗ってこの地域を視察に回ったのですが、この牛をお召牛といって、農業には従事させず池田の人々が大切に飼育していました。やがてその牛が死んでしまい、地元の人々はその牛の遺骨を別けて池田中・川・下の各村にそれぞれに小祠を立てて供養し、冥福を祈りました。その小祠が「野神さん」といわれているものです。
野神とは五穀豊穣を願ったものですが、賽 (さい) の神だったものが野神に変わったとも考えられています。賽の神は道祖神 (どうそじん) などとも呼ばれ、外から村に病気などが入ってこないようにと願って村の出入口などに祀られる神様です。村から旅に出る時や帰ってきた時にお参りしたものでした。
これらの他にも高柳村など数カ所にあったようですが、葛原村にあった野神様には、そばに大きな楡 (にれ) の木があって、この木の下から三十数体の石の地蔵様が出てきたというお話もあります。
黒原城内町のほぼまん中に位置する付近に、「乃が美」と掲げられた祠があります。もとは村の東北隅にあったもので、その後現在の場所に移ったものですが、昔の面影がよく残っています。

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更新日:2021年07月01日