令和2年8月号「山崎渡船遭難者之墓碑」
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明治43年4月29日、淀川上流の山崎(京都府)で渡し船が転覆。大利(当時九箇荘村)の観音講一行のうち、子どもを含む計16人が犠牲になりました。淀川河川史に残る大惨事です。
一行は72人で、開通したばかりの京阪電車で橋本駅まで行き、淀川対岸の柳谷観音(長岡京市)に詣でて帰る途中。渡し船には第一陣として19人が他の客と乗っていました。
北風が強く、乗客が多かったのが原因とみられますが、蒸気船の横波を受けたともいわれます。当時の新聞には「前日の雨にて水嵩(かさ)増さり急流箭(や)の如く」とあります。
碑には「親子いだき死す者あり、一家全滅する者あり」と、惨状が記されています。碑は遭難者の百か日法要に合わせて、村長や講元、世話人の発起で建てられました。
更新日:2021年07月01日