令和4年2月号 能を世界に発信する 能楽師 辰巳満次郎さん(61歳)

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『嘆きの壁』の前で舞う

『三輪』を演じる

監修した『能の本』

公演や弟子の指導、能楽の普及活動と多忙な日々を送り、誰もが一目をおくシテ方宝生流能楽師の実力派。東京と大阪を週に3度も往復することがあり、「住所は新幹線です」と笑顔を見せます。

「気がついたら能の世界に」 父親の厳しい指導に感謝

能舞台で主役を演じるシテ方。5流派の一つ宝生流の地盤を祖父が金沢から大阪に移し、父親の辰巳孝さんが跡を継ぎました。代々続く能の一家の二男として生まれ、4歳で初舞台。「気がつくとこの世界に入っていました」。
55年前、関西の拠点として父親が香里園駅に近い香里本通町に建てたのが香里能楽堂です。「2階が住居になっていて、小学校2年生のときに神戸市から家族4人で移りました」。
父親が師匠。朝早くにたたき起こされると、厳しい稽古が待っていました。「家に帰って父の靴があると、気分的に暗くなったものですが、嫌われることを覚悟で指導するのがこの世界。今は父に感謝しており、(能楽師の)長男やおいっ子にも同じように接しています」。

上京し宗家の内弟子に 25歳で晴れて一本立ち

能楽師を生業としてやっていくと決めたのは高校生のときでした。東京芸術大学に進学し上京。宝生流18世宗家の内弟子として厳しい修行生活が始まりました。
稽古だけではなく、炊事や洗濯、車の運転など師匠の身の回りの世話をしながら大学へ。能舞台や能面の管理も行い、午前2時頃にやっと眠りにつきました。「住み込みの修業は昔の丁稚奉公のようなもの。休みは盆と暮れの7日間だけで、大学生活を楽しむには程遠い毎日でした」。
22歳のときに主役で能舞台に上がりました。「演劇や芝居と同じようにチョイ役に出て主役がつき、初めて“人間”として認められます。もちろん能の世界での話です」。
3年後に独立し、晴れて個人事業主として一本立ち。ほかの能楽師より早く段階を踏み、弟子も大学4年生のときに取っていました。
「ゆくゆくは父親の跡を継いで関西の流派を統括し弟子を指導する立場だったので、少し早めにいろいろなことをさせてもらいました」。

能は祈りの芸能 「嘆きの壁」で平和願う

生まれたときは2500gに満たない低体重児でしたが、今は身長181センチメートル、80キログラム。堂々とした風格のある舞でファンを魅了します。
祖父が興した大阪の宝生流定期能「七宝会」を主宰し、東京と京都、大阪で自主公演「満次郎の会」を毎年開催。多忙を極める毎日ですが、疲れを知りません。新幹線の移動中でも「一番はかどるので」と事務作業をこなします。
海外公演も精力的にこなしてきました。忘れられないのは7年前のイスラエル公演です。「能は祈りの芸能と言われ、世界の聖地・エルサレムにある『嘆きの壁』の前でも平和を祈りたい」と計画しました。
しかし許可が下りません。半ば諦めていたところ、ほかの公演を終えて帰国当日に突如許されました。「奇跡でした。残っていた囃子(はやし)方などたった4人のスタッフと壁の前での舞が実現しました」。

「日常的に触れる機会を」 様々な仕掛けで普及

海外では日本文化への関心が高く、公演はいつも満員。ところが日本ではハードルが高いと感じる人も多く、「独自の文化を誇りに思う人がもっと増えてほしい」と語ります。
力を入れているのが能楽堂に足を運んでもらう数々の仕掛け作り。幼児からお年寄りまで幅広い世代に体験教育などを行っているほか、オンライン配信などを使って普及活動に尽力しています。
例えば「期せずして能に出会える」機会作りです。レストランなどで予告なしに能を披露。日常生活の中で伝統芸能に関心を持ってもらおうという試みです。さらに能を短編小説のように読みやすくした『能の本』(西日本出版社)を監修。「高いハードルの一つは内容がわからないことで、ストーリーを漫画などを使って解説しています」。

「魂の居所」を再建 社会貢献できる能楽堂に

1000人を超える能楽師が舞台に立った香里能楽堂は昨年7月、京阪電鉄の連続立体交差事業に伴い一部を解体、縮小されました。
260席あった客席は半減。通常の能公演はできなくなりましたが、稽古や日本文化に親しむサロン、オンライン配信の場として残すそうです。「一番長く付き合ったこの能楽堂は私の魂の居所。できればここから遠くないところに能舞台を移築し、地域のために社会貢献できればうれしい」と再建に意欲をみせます。

能とは…

1400年の歴史を持つ日本を代表する伝統芸能。今の形が完成したのは室町時代で、舞と声楽の謡(うたい)によって桧造りの約6m四方の本舞台で物語が進行する歌舞劇です。能楽師は主役のシテ方や相手役のワキ方、楽器を演奏する囃子方、狂言方と役割が分かれており、それぞれ複数の流派があります。

私とふるさと

8歳のときに寝屋川市に引っ越し、第五小学校、第六中学校に通学。大学に入るまで暮らしていました。今も1年の3分の1は実家に帰っており、私の人生の中で本当に深く育てていただいた、ありがたい街です。
市内には、聖徳太子の側近で“能楽の祖”秦河勝(はたのかわかつ)のお墓として伝わる墓碑があります。そうであれば、この地に文化や技術で優れた人たちも住んでいたはずです。
河勝は日本の文化を作った人物です。その意味で寝屋川市は素晴らしい歴史を持っており、文化の面でも希望と可能性に満ちたところだと思います。

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更新日:2022年01月26日