令和2年7月号 高校で出会いつかんだオリンピック 木野実さん(74歳)

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高校時代を振り返って話をしている木野さんと多賀谷さんの写真

高校時代を振り返る木野さん(右は多賀谷さん)

前列に8名の男女が座り、後列に10名の男子がボールを持っている白黒の集合写真

寝屋川高校ハンドボール部(木野さんは後列左から6人目)

 ミュンヘン五輪とモントリオール五輪に、ハンドボールの日本代表で出場した木野実さん。「自分の人生を豊かにしてくれました」と感謝するその出発点は寝屋川高校でした。
 「ハンドボール部に来ないか」。大阪市の同じ中学校を卒業した先輩に声を掛けられたのは昭和36年4月、寝屋川高校の入学式の日でした。「一度は断ったのですが、学生食堂で35円のうどんをおごってもらい、結局、入ることになりました」。
 創部は高校の前身の寝屋川高等女学校時代です。その伝統を受け継ぐ女子はインターハイで4度優勝。4年前にできた男子も前年3位と急成長していました。

ボールに石灰まぶして猛練習 インターハイ連続出場

 当時、7人制の女子と違い、男子は11人制の屋外競技でした。「学校にナイター設備がなく、暗くなるとボールに石灰をまぶして練習。つらくて気弱になることもありました」。
 しかし、走り込みで地力が付くと自信を取り戻し、長身を生かして1年目からレギュラーに。インターハイでベスト8入りし、翌年は3位と順位を上げると、7人制になった高校最後の大会では優勝を狙いました。
 順調に勝ち上がり、愛知勢との準決勝。「終了間際に相手が反則し、私がシュートを決めれば同点、延長という絶好のチャンスでゴールキーパーに取られ試合終了。1か月間、そのシーンが夢に出てきました」。
 ですが、同期の多賀谷博康さんは「誰も彼を責めませんでした。むしろ全力を出し、皆すっきりした表情でした」と振り返ります。

「夢中でここまできました」 けが乗り越え五輪初勝利

 立教大学でもトッププレーヤーとして活躍しました。卒業後は辞めるつもりでしたが、「新チームを作るから」と誘われ、大阪市の湧永薬品(現湧永製薬)へ。ハンドボールが36年ぶりに正式競技に復活したミュンヘン五輪につながりました。
 ところが予選の2戦目で背筋を断裂し、ドクターストップがかかりました。「悔しくてベッドで泣いていると、日本人の男性がふらっと入って来て背中を触り、『大丈夫や』と一言。テーピングをして次のアメリカ戦に出て、五輪初勝利を挙げることができました」。後に、その男性は奈良から応援に来ていたハンドボール協会の会長とわかったそうです。
 成績は16か国中11位。目標のベスト8に届きませんでしたが、26歳で五輪切符をつかんだ思いを当時のハンドボール協会誌で語っています。
 「寝屋川高校で教わって十余年、夢中でここまできました。多くの先輩たちがオリンピックに巡り会えず、幸いにして私たちがその年に出くわしラッキーの一言に尽きます」。

「今できることに全力投球を」 オリパラ延期で後輩にエール

 現在は車椅子ハンドボールなど障害者スポーツにも携わっています。東京オリンピック・パラリンピックは新型コロナウイルスの影響で開催が1年延びましたが、「こんなときだからこそ今できることに全力投球すれば、きっと新しい出会いや発見につながります」と後輩のアスリートたちにエールを送っていました。

私とふるさと

 私が高校に通っていた頃、寝屋川市駅の少し京都寄りにあった豊野駅が最寄り駅でした。通学路にはまだ多くの田んぼや畑があり、のどかな風景が広がっていました。
 校舎は本館が鉄筋コンクリート造りでしたが、ほかの建物は木造でした。前身の寝屋川高等女学校の校風がまだ残っていたのか。みんな真面目でおとなしい生徒たちばかりという印象でした。
 今は埼玉に住んでいます。数年前に母校を訪ねましたが、隔世の感がある駅前や住宅街に比べて、高校の敷地に一歩入ると当時の面影が残り、懐かしさがこみ上げてきました。

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更新日:2021年07月01日