令和元年12月号 「わずか5年でつかんだ"五輪キップ"」元スノーボード日本代表 橋本通代さん(47歳)

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ボードで雪の斜面をジャンプしている橋本通代さんの写真
白い帽子を被った橋本さんと白い服を着た男性が笑顔で写っている写真

 「世界で通用する選手になる!」。24歳でスノーボードを始め、世界の舞台へかけ上がった寝屋川市出身の橋本通代さん。2002年のソルトレイク冬季五輪に出場し「ここに来ることができたのは、ふるさとの皆さんのおかげ」と感謝を忘れません。

「有名になって五輪に」スノボーで世界めざす

 小さい頃は体育が大の苦手でした。自称”文系女子”がスポーツに目覚めたのは、四天王寺国際仏教大学1年生のとき。友人に誘われたスキーのモーグルに熱中したといいます。
その頃、世間は就職氷河期でした。卒業後の進路に悩みましたが「スキーで有名になろう」と単身カナダのウィスラーへ。スキーが盛んな地でしたが、ホームステイ先は日本人のスノーボード一家。「誘われて滑ったら簡単にジャンプができ、3日後にはボーダーになっていました」。
そのとき、すでに24歳。時間はありませんでしたが、「エッジの使い方などがスキーと似ていてね。地元のハーフパイプの大会で3週続けて3位入りました」。そして転向3年目でナショナルチーム入りし、1999年開幕のワールドカップ(W杯)参戦にこぎつけたのです。

「寝屋川市から五輪選手を」転戦費用を市民が支援

 ところが各地を転戦する遠征費約200万円の工面が大変でした。しかも全て自己負担。この窮地に救ってくれたのが、雪と縁のない寝屋川市の人たちでした。「ミッチャンのために」とボードをかたどったステッカーを作り、1枚1000円で協力を呼びかけると、7か月間で150万円が集まりました。
市民の支援で参加したW杯は2大会で表彰台に上がり、世界ランキングも6位に。翌年も連続2位に入り、五輪の代表切符をつかんだのです。
市内の体操教室でも得意のジャンプを磨き、29歳で臨んだソルトレイク五輪のハーフパイプ。
「コンディションは最高。決勝に進みましたが、より高く跳びたいという気持ちが強く出すぎた」といい、結果は12位でした。それでも「夢のような大会でした。寝屋川市の皆さんの支援がなければ、W杯の参戦はなく、その次の五輪もありませんでした」。

選手から指導者に「子どもたちに経験を伝えたい」

 五輪後、脊椎を痛める大けがをしましたが、「素晴らしい体験を子どもたちに伝えたい」と、宿泊型の教室「キララ キャンプ」を福島県内で開設。7年前に長野県軽井沢町に拠点を移し、これまで何人ものオリンピアンを育ててきました。

私とふるさと

 3歳のとき、交野市から父親の実家がある寝屋川市に引っ越してきました。市立南小学校に入りましたが、子どもの数がすごく多かったという印象でした。田舎ではないけれど、都会という雰囲気でもなく、そんな中で伸び伸びと楽しく過ごせました。
中学校では、先輩に憧れて入った吹奏楽部もしばらくして退部。中学校、高校とクラブ活動はほとんどせず、早々に下校する「帰宅部」でした。
両親は母の実家のある高知に移住し、寝屋川市を訪れる機会は少なくなりましたが、結婚する35歳まで過ごした街。オリンピック出場とも重なって忘れられないふるさとです。

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更新日:2021年07月01日