令和元年11月号 「審判員として選手を見守る」元フィギアスケート五輪代表 加納誠さん(53歳)
1988年のカルガリー五輪に、フィギアスケートの男子シングル代表で出場した寝屋川市出身の加納誠さん。今は審判員として全国の競技会場を飛び回り、リンクの外から選手たちを見守っています。
人生変えたコーチとの出会い「夢の世界に少し近づいた」
「スケートを始めたのは、たまたまでした」。大阪市内に住んでいた幼稚園の頃。親せきの人と出掛けた六甲山の人工スキー場で雨に遭い、急きょ、近くのスケートリンクへ。「これがすごく面白くて。自宅から20分ほどの小さなスケート場でフィギアを習うきっかけになりました」。
小学校3年生のときに寝屋川市に引っ越し、第六中学校に入学した年の12月。桜宮スケートリンクに練習拠点を移し、その後の人生を変える大西勝敬コーチと出会います。「その頃、トップ選手はテレビでしか見ない別世界の人でした。そんな人たちとも顔見知りで、選手でも活躍したコーチの指導を受け、夢の世界を身近に感じるようになりました」。
ある日、2回転半ジャンプが跳べずに悩んでいたところ、「来年くらいにはできるぞ」と言われ、「そうかなあ」と思ったそうです。氷上では厳しく、リンクの外では気さくな”大西マジック”にかかったのか、翌年には成功。その半年後に3回転も跳び「一つ先に進んだようでした」。
ライバル制して悲願の五輪「地元の声援忘れません」
桜宮高校に入ると、放課後の練習に早朝練習が加わりました。結果はすぐに現れ、2年生の時に全日本選手権で3位。翌年も2位と2年連続で表彰台に上がり、自身もトップ選手の仲間入りを果たしたのです。
そして摂南大学生で迎えた昭和63年1月の全日本選手権。カルガリー五輪の代表1枠をかけた一発勝負の大会で3回転半を跳び、ジュニア時代からのライバルを圧倒しました。
1か月後、舞台はカナダへ。後に銀メダルに輝く伊藤みどりさんも出場した五輪で、「ランボー」などの映画音楽を取り入れて力強さを表現しましました。結果は17位でした。「氷上に描く図形の正確さを競う規定という種目でミスをし、ショートプログラムでの転倒も痛かった。でも地元の熱い声援は今も忘れません」。
「演技、ちゃんと見てあげたい」審判員として全国を奔走
「4回転の時代に入り、レベルの差を感じた」といいます。次の年の世界選手権を最後に引退し、大手電気機器メーカーに就職。その傍らで「何らかの形でスケートに関わりたい」と、審判員に転身しました。
「選手は新しい演技に挑み、私たちも見る目と感性を養っています。それでもこの採点でよかったのかと毎回反省しています」。
今年も本格的なシーズンを迎え、単身赴任先の福岡から週末には大阪や名古屋、東京へ。スケート連盟の役員として大会運営にも目を配っており、「今のフィギアスケート人気を支えられたらうれしい」と笑顔で話してくれました。
私とふるさと
小学校3年生の冬に、大阪市内から寝屋川市立第五小学校に転校しました。友達ができるか心配でしたが、すぐになじめました。
びっくりしたのは、児童の数の多さでした。私は(同じ年齢の人口が少ない)丙午(ひのえうま)生まれ。大阪の小学校では1学年4クラスと他の学年より少なかったのですが、第五小学校に来ると何と6クラスもあり、驚いたのを覚えています。
成田山の近くに自宅がありました。スケートのトレーニングの一つとして毎日、学校に行く前に成田山までの坂道をよく走っていました。
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更新日:2021年07月01日