令和元年8月号 「記録より記憶に残る選手に」元マラソン日本代表 砂田貴裕さん(46歳)
10歳代の日本最高記録を作ると、初の海外遠征で表彰台に。調整で出た100キロメートルの大会では、いきなり世界最高記録を打ち立てました。その度に周りを驚かせた砂田貴裕さんがマラソンランナーとして歩んできた、その原点は寝屋川市にありました。
「京阪電車と競走するように―」寝屋川の土手でランニング
大阪市で生まれ、幼稚園の頃に寝屋川市へ。小学生で剣道を始めましたが、「全員部活をするのが決まりだったので」と市立第九中学校に入学するとテニス部に入りました。
ところが「やんちゃ坊主で逃げ足の速さ」を見ていた同級生から「いろんなところに行けて楽しいよ」と陸上部に誘われ、たった半年で転向。「球技はレギュラーしか大会に出られないけれど、陸上ならチャンスもある」。そんな思いもあり、これがランナーへの第一歩となりました。
中学校時代の専門種目は3000メートルなどの長距離。走れば10分ほどの淀川河川敷は格好の練習場所でしたが、部活中は外に出ることは認められず、「いつも学校の中をぐるぐる回っていました」。そこで思い付いたのが放課後に寝屋川の土手を走るランニングでした。
「競走するように京阪電車を追いかけ、友呂岐緑地のたこ公園までひたすら走っていました」。中学校では大阪府大会止まりの成績でしたが、ここで鍛えた走力が150人もの部員が集まる私立の有力高校進学や強豪の大阪ガス入社へとつながりました。
初の日本代表で銀メダル「競技人生が変わりました」
当然、強い選手ばかりでした。「それなら駆け引きはせず、最初からどんどん行って記録より記憶に残る選手になろう」。勤務が終わると、午後7時から夜遅くまでマラソンの練習に明け暮れました。
入社2年目に結果は表れました。19歳で臨んだ山口・防府マラソンでジュニア日本最高記録をマーク。積水化学に移籍した3年後にギリシャのアテネで行われたワールドカップマラソンで飛躍のきっかけをつかみました。
胸に日の丸を付けて臨んだ初めて海外レースで、「日本代表4人のうち評価は私が4番目。日本のメディアには注目もされませんでした」
ところがレースは、予想外の展開になりました。ほかの日本人選手が次々と脱落する中で積極的に飛ばした砂田さんが、ケニアの選手に続いて2位に入ったのです。
無名選手の快走に「ゲストで観戦していた五輪メダリストから『面白いレースだった』と声を掛けられました」。競技人生が変わるほどの大会だったといい、これを機に多くの大会に呼ばれるようになりました。
平成10年のサロマ湖100キロウルトラマラソンは「右足の手術でしばらく走っていなかったので、リハビリのために初めて出た」という専門外の種目でしたが、世界最高の6時間13分33秒で優勝。昨年まで20年間も破られず、記録にも記憶にも残るレースとなりました。
「今は息子の活躍が楽しみ」中学陸上で優勝の次男
17年前に現役を引退した砂田さんの今の楽しみは、高校で陸上を続ける次男を見守ることです。中学校の全国大会400メートルで優勝し、「私を超えました」と笑顔。自身はゲストで大会に参加するなど市民ランナーと触れる機会も多く、「私の助言などをきっかけにもっと成長してくれたらうれしい」と話しています。
私とふるさと
幼稚園の年長の頃から20歳まで過ごしました。この10数年間は、ちょうど寝屋川の街が色々と移り変わる時期だったのかなと思います。
母校の九中(第九中学校)は球場跡にできたのですが、当時外野の方向にあった原っぱはなくなり、そばに広い道路が通ったり、近くの淀川に大きな橋が架かったり。眺める景色が随分変わりました。
現在、東京都内で暮らしています。年に1、2回は車などで帰省していますが、今も新しい発見がある”気になる街”ですね。
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更新日:2021年07月01日