茨田樋の経緯
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江戸年間から小規模な取水がはじまる
現存している樋遺構は、明治38年に造られ、昭和5年に廃止され、替わりに淀川沿いに新たに掘られた幹線水路にその役目が引き継がれるまで、池田・点野・対馬江・仁和寺など市内西地区をはじめ門真・守口市方面の人々の生活を支えた土木文化遺産ともいえるものです。
その頃、淀川から農業用水・生活用を引き込んでいた用水樋門は、淀川左岸では枚方から毛馬までに8箇所ありましたが、台風など大水時に堤防決壊の恐れがあるとして昭和初期にすべて廃止され、かつての遺構が現存しているのは、この「茨田樋跡」だけになっていました。
高度成長期までは、淀川の水は非常にきれいで、用水路は地域のコミュニケーションの場でもあった
かつて、淀川の水は非常にきれいで、大川(旧淀川)の水で千利休が茶の湯を立てていたといわれています。
淀川・寝屋川・大川に囲まれた北河内・なにわの一帯は、淀川の河口部の本流から分かれた派流の間に発達したデルタ地帯で、源流はもちろん淀川そのものでありました。このデルタ地帯に点在する集落では、高度成長期前まで水路に設けられた“ひなだ"と呼ばれ上水道が引かれても「もったいない」として飲料、煮炊き以外は“ひなだ"を活用する人も多く、水辺では、こどもたちが泳いだり魚とりを行なうなど、用水路は各集落のコミュニケーションの場でもありました。また、年に1回、村人総出の “川浚え"“どべ上げ"と呼ばれる共同の川普請もして、大切に扱われていました。

茨田樋日景

整備前の風景
更新日:2021年07月01日