畠山義豊の墓

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寝屋川市の文化財

伝・畠山義豊(はたけやまよしとよ)の墓 成田西町(成田不動尊境内)

基壇の上に設置してある畠山義豊の墓の隣に鉢かつぎ姫の形をした石像が説明看板を持っている写真

室町時代に起こった応仁の乱(1467~1477年)が終結した後も畠山氏の内紛は続きました。

義就(よしなり)の子義豊(よしとよ=基家)は河内正覚寺城(かわちしょうがくじじょう)に政長(まさなが)を攻め自刃させましたが、その子尚順(ひさのぶ)に明応8年(1499年)攻められて伴抜庄(ともぬきのしょう=十七箇所)で敗死した、と『応仁後記』に記載されています。

伴抜庄は、本市の北部一帯と枚方市の南部の一部と考えられています。

この義豊墓と伝えられている五輪塔は、昭和23年(1948年)、現在地から西北数百メートルのところで発見され、成田山不動尊の客殿の庭園に置かれていましたが、昭和55年(1980年)、今の地に新たな基壇(きだん)を設けて安置されるようになりました。

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更新日:2021年07月01日