池田の野神(のがみ)さま

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大きな岩にしめ縄が飾られ、飲み物などのお供え物があり、池田の野神さまが祀られている写真

寝屋川市の平野は米どころでした。
淀川の堤から、東の方の南北に連なる丘陵までは、一面の黄金波うつ実りの稲田で、春になると菜の花が野を埋め、また麦や綿なども色づいて美しい景色でした。その中に、小さな村が点在して河内野(かわちの)はほんとに豊かな土地でした。お百姓さんたちは、これも野神さんのおかげであると信じて、昔からお祀(まつ)りを絶やすことがありませんでした。元の九箇荘(くかしょう)村に、池田川村・池田中村・池田下(しも)村という三つの村があります。それぞれ野神さんをお祀りしています。

それは江戸時代のことでした。
その頃、池田の村々を治めていた殿さまは、永井信濃守(ながいしなののかみ)といいました。
そろそろ、田植えの準備に取りかかろうとする頃、殿さまが、たくさんの家来をつれて、領内の見廻りにおいでになりました。村から村をまわって、池田川村までおいでになった時、何に驚いたのか、殿さまの乗っておられた馬が突然あばれだしました。そばに池があります。危険この上もありません。
家来たちは、必死になって馬の轡(くつわ:口にからませて、たづなを付ける金具)にぶら下がって、馬をとり鎮(しず)めようとしましたが、馬はますますあばれます。殿さまも危うく落馬しそうになりました。
やがて何人もの家来に押さえこまれて、馬はようやく、おとなしくなりましたが、あばれていた時、運悪く片足を池の中にめりこませて、足を痛めてしまいました。馬は足をひきづっています。もはや馬に乗ることはできません。家来は、みな歩いて、つき従っています。代わりの馬を差し出すことはできません。それに、このあたりの農家は牛ばかりで、馬は一頭もおりません。だからといって、殿さまを歩かせるわけにもまいりません。困りはてていると、一人のお百姓が、おずおずと申し出ました。
「私の家の牛は、とてもおとなしくて、あばれたりすることはありません。それで田んぼへの行き帰りには、いつも牛に乗っています。もしお使いいただけるようでしたら、私が手綱(たづな)をひいてまいりましょう」といいました。
殿さまが牛に乗って領内を見回るなんて、とてもできそうもありませんが、意外にも、殿さまは、その申し出を聞くと、「それは良い考えだ。牛に乗ろう」と、いいました。
永井の殿さまは、大そう菅原道真(すがわらみちざね)公(天神さま)を信仰していました。それで領内の村々に、天神さまを祀るようにと、すすめていました。その天神さまの「つかわしめ」である牛に乗って、領内を見回ることができるとあって、殿さまは大乗気(のりき)でした。
早速、村人は、牛をきれいに洗って、ひいてきました。黒色のつやつやとした毛なみです。よく肥えています。殿さまは上機嫌で牛に乗りました。
馬のように威勢よくとはいえませんが、それでも行列は、牛を先頭にゆらりゆらりと、出発することができました。
その日、領内の見回りが無事終わった時、殿さまは、「良い牛だ。大切に飼ってあげよ」といって、ごほうびを下さいました。

間もなく端午(たんご)の節句(せっく)がやってきます。
そのお百姓さんは、五日の節句を待ちかねるようにして、赤や青や黄などの、きれいな布を買いました。そして当日になると、その布で・角(つの)・頸(くび)・背中(せなか)などをきれいに飾り立て、キリシマの花を挿(さ)して、野神さんへお参りしました。
野神さんへ着くと、牛にお酒を飲ませました。軟らかく煮た麦や豆を食べさせました。また淀川の川原から刈ってきた柔らかい若草をたくさん与えました。

その年は不思議なほどの豊作でした。
それからというもの、毎年その日になると、そのお百姓さんは牛を休ませ、美しく飾りたてて野神さんへお参りするようになりました。すると豊作が続いて、村人たちを、うらやましがらせました。
やがて、それを見習って、牛を飾りたて、野神さんへお参りする家が、だんだんと多くなりました。また隣り村も、同じように、自分の村の野神さんへお参りするようになりました。
この行事は、ずいぶんと長い間続けられていましたが、現在では農耕の牛を飼っている家は一軒もなく、代わって耕運機(こううんき)がエンジンのうなり声を、あげるようになりました。
けれど、野神さんを祀る風習は、今もって絶えることなく、村人によって受け継がれています。
(山下通夫氏座談より)

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更新日:2021年07月01日