千種庄右衛門碑
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寝屋川市の文化財
千種庄右衛門碑(ちぐさしょうえもんひ)
国松町は、近世には讃良郡(ささらこおり)国松村とよばれていました。この地の悪水は、寝屋川と南前川の合流地点付近で寝屋川に流れていました。しかし、寝屋川の川床が上流からの土砂でだんだん高くなるに従って悪水の排水が悪くなり、大雨があると領内に逆流して田んぼや畑が冠水してしまうという状態でした。
かつては「国松のやきどうふ」という言葉があり、日照りが続くと田は焼け、雨が続けば悪水が停滞し水浸しになっていたといわれます。
江戸時代中ごろ、国松村は幕府の直轄地で近江信楽(おうみしがらき)代官の支配下にありました。当時役人であった千種庄右衛門は、国松の人々の苦しみをみかねて享保(きょうほう)9年(1724年)寝屋川の川床をくぐる伏越樋(ふせこしひ)を設けて、友呂岐悪水路(ともろぎあくすいろ)に水を落とすことに成功しました。
しかし、用水・悪水などの関係の複雑さから隣村の三井村との紛争が絶えませんでした。千種庄右衛門は、その責任をとって自害したと伝えられています。昭和28年(1953年)には行誓寺(ぎょうせいじ)本堂前に「千種庄右衛門大人(うし)之碑」、昭和40年(1965年)には伏越樋のある堤上に「千種庄右衛門彰徳之碑」が建立されました。
千種庄右衛門については、行誓寺には「智久瑳昌右衛門(ちぐさしょうえもん)霊」と記した位牌と江州信楽の役人と云う伝承があるのみでしたが、平池の旧家の古文書により享保9年にこの悪水の工事があったことが明らかになりました。
更新日:2021年07月01日