二十箇用水
ページID: 3079
寝屋川市の歴史
寝屋川市の文化財
二十箇用水(にじっかようすい)
天正末から文禄3年(1594年)にかけて豊臣秀吉が築いた文禄堤によって、淀川分流が断たれたため、友呂岐庄では木屋村の堤防に取水管を入れて灌漑(かんがい)用水にしました。
当初は友呂岐6か村(三井を除く、木屋・郡・田井・平池・石津・太間)の灌漑用水でしたが、後に大利・神田が加わり「八か用水路」と称しました。さらに近郷九か村、島頭・巣本・下馬伏・上馬伏・岸和田・野口・打越・横地・常称寺が加入しました。合計17か所になりますが、友呂岐6か村を別格扱いとし、「上11か村」といいました。
さらに享保(きょうほう)9年(1724年)に「後入り9か村」といわれる木田・御領・氷野・三箇・赤井・太子田・灰塚・尼崎新田・鴻池新田が加わり、上と合わせて20か村の用水路になりました。
市域では、石津の南方から寝屋川に沿って、友呂岐悪水路(現在は二十箇用水路と一本化されて友呂岐水路)と並行して流れ、萱島南方で東流して寝屋川に合流しています。
更新日:2021年07月01日