畠山義豊の墓
ページID: 3065
寝屋川市の文化財
伝・畠山義豊(はたけやまよしとよ)の墓 成田西町(成田不動尊境内)
室町時代に起こった応仁の乱(1467~1477年)が終結した後も畠山氏の内紛は続きました。
義就(よしなり)の子義豊(よしとよ=基家)は河内正覚寺城(かわちしょうがくじじょう)に政長(まさなが)を攻め自刃させましたが、その子尚順(ひさのぶ)に明応8年(1499年)攻められて伴抜庄(ともぬきのしょう=十七箇所)で敗死した、と『応仁後記』に記載されています。
伴抜庄は、本市の北部一帯と枚方市の南部の一部と考えられています。
この義豊墓と伝えられている五輪塔は、昭和23年(1948年)、現在地から西北数百メートルのところで発見され、成田山不動尊の客殿の庭園に置かれていましたが、昭和55年(1980年)、今の地に新たな基壇(きだん)を設けて安置されるようになりました。
更新日:2021年07月01日