弥生時代

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4.弥生時代

淀川や大和川水系の河川が上流から運んできた大量の土砂の堆積によってできた広大な平野は、水田として米作りを行うには格好の土地です。今から約2300年前の紀元前3世紀頃に朝鮮半島から九州北部・瀬戸内地域を経由して米作りの技術や、鉄や青銅でできた道具に代表される新しい文化が伝わりました。この頃から古墳が築かれるようになる紀元後3世紀後半までの約600年間を、弥生時代といいます。

この時代を代表する遺跡に初町~本町にかけての高宮八丁(たかみやはっちょう)遺跡があります。この遺跡は弥生時代前期~中期のムラの跡で、炭化した米、木製の農具や「石庖丁(いしぼうちょう)」とよばれる道具が出土し、米作りが行われたことを示しています。

弥生時代の中頃になると東部丘陵地の太秦(うずまさ)遺跡にムラが出現します。二つの遺跡は近接しており、高宮八丁遺跡に住んでいた人々が、何らかの理由で太秦遺跡に移り住んだのかも知れません。中国の歴史書の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にはこの頃に日本では「倭国大乱(わこくのたいらん)」という戦争があったと記されています。太秦のような米作りには不都合な丘の上の遺跡はこうした戦争と関係するのではないかと考えられています。弥生時代の終わり頃には高柳遺跡・池ノ瀬遺跡・小路(しょうじ)遺跡でもムラが出現するようです。

模様が入った木製の丸いふたの写真
発掘調査中の高宮八丁遺跡の写真
発掘された木製品の農耕具などの写真

高宮八丁(たかみやはっちょう)遺跡

高宮八丁遺跡は市域の中心部の本町~初町に広がる弥生時代の集落遺跡です。昭和60~61年(1985年~1986年)の寝屋川郵便局の建設に伴う発掘調査で発見されました。
この調査(第1次調査)では、北東から南西方向に弧を描いて流れる何本もの溝が見つかりました。これらの溝の南東では遺物の量が少なくなることから、溝はムラの周囲を巡り、内側と外側を区画するためのものと考えられます。溝の中からは大量の弥生土器や石器・木製品が出土しています。また、平成3年に行われた第2次調査では、柱穴・ゴミ穴などの遺構がみつかり、調査地がムラの内部であることがわかりました。2回の調査からムラは現在の初本町公園を中心に広がっていることがわかりました。
木製品には、鍬(くわ)や鋤(すき)(スコップ)のような農耕具、舟の櫂(かい)、斧(おの)の柄、弓、容器など様々な種類のものがあります。木製品の中には原材や製作途中の未製品(半製品)があり、ムラの中で木器の製作を行っていたことがわかります。また、石器には縄文時代と同じように石を打ち欠いて作った鏃などの打製石器と石斧や石庖丁のように磨いて仕上げる磨製石器があります。打製石器の材料は、サヌカイトと呼ばれる石ですが、近畿地方では大阪府と奈良県の境にある二上山でとれますが、遺跡から出土したものの中には香川県の金山(かなやま)産のものもふくまれています。また、石庖丁の材料には近畿地方北部の丹波山地産の粘板岩(ねんばんがん)が多く使われていますが、和歌山県あるいは徳島県産の結晶片岩(けっしょうへんがん)や奈良県耳成山(みみなしやま)産の流紋(りゅうもん)岩も使われています。
また、首飾りなどに使用された硬玉(こうぎょく)(ひすい)製の勾玉(まがたま)や碧玉(へきぎょく)製の管玉(くだたま)が、みつかっています。特に管玉は、原石や未製品、加工の道具類がみつかっており、ムラの中で玉作りが行われていたことがわかりました。こうした玉の原石は、日本海側の山陰~北陸地域で産出するもので、高宮八丁遺跡で出土しているものもこうした地域から持ち運ばれてきたものでしょう。
出土した土器の量は大阪府下でも有数の量です。特に北河内では四條畷市雁屋(かりや)遺跡と並んで最も古い弥生土器が出土しており、北河内地域最古の弥生集落の一つと言うことができます。また、土器の中には瀬戸内地域、京都府南部の乙訓地域、琵琶湖周辺地域の特徴をもったものが含まれています。
豊富な出土遺物から当時の人々の生活を復元することができ、北河内地域のみならず近畿地方の稲作の開始を考える上で重要な遺跡です。また、出土遺物の中には他地域との交流を裏付けるものがあり、当時の社会を復元する上で重要な資料となります。なお、高宮八丁遺跡の時期は出土土器より前期前半~中期中頃で、これ以後集落は急速に衰退するようです。
遺跡から出土したヒスイ製の勾玉・櫂・ドングリの貯蔵穴は、市指定文化財(考古資料)となっています。

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更新日:2021年07月01日