地域のむかし

下記のお話は、創立十周年記念誌「しめの」より転載させていただきました。



点野のむかし

    公家占野
           西奥伊三次 木下久吉 河原美恵子

 点野の地名は、昔、宇多天皇がこの地を猟場として、囲いを占めて「公家占野」という立礼を立てて、多くの人が猟をすることを禁止した野から始まり、最初は標野で〆野、點野と変わってきて、点野となりました。今まだ戸籍に點野が残っています。
 明治36年、点野と萱島の中間に、九個荘尋常小学校(今の西小)が創立されました。学校に行く時、カバンがなくて風呂敷にお弁当を包んで腰にくくりつけて、母親に、バッチやひも付きのタビを縫っもらって、ぞうりを履いて通いました。九ヶ荘小が出来るまでは、明治8年に創立された池田のお宮さんの横にあった門田尋常小学校に通いました。その時分の先生はこわかったものです。悪さをすると職員室に呼ばれて、茶わんに熱いお茶を入れて持たされ、落とすと、むちでたたかれたりしました。ひもでしばられたりもしました。
 室戸台風の時、情報がわからず登校して、教室に入って間もなく、先生が「すぐ外に出なさい!」と叫んで、皆校庭に出ました。その直後、校舎が倒れましたが、生佳は全員無事でした。大和田の小学校では200余人の生徒が校舎の下敷で亡くなりました。あの時「逃げろ」と指示してくれた吉村先生の事を今だに忘れることが出来ません。
 明治の終わりに京阪電車が開通し、大正5年頃、点野の家々にも1軒に20ワット1灯電灯がつきました。それまでは、行燈やランプを使っていました。昭和2年頃、まだランプを使っている家もありました。
 淀川の堤防が何度も切れるので、桜の木や松の木が植えてありました。400年も前に植えられたそうですが、5人位大手を広げて届く位太く、千両松と呼んでいました。18本位残っていましたが、堤防を高くする工事を重ねるうちに枯れてしまいました。今の運河が昭和5年に赤川まで開通して、魚を取ったり、仁和寺の方まで泳いでいったものです。淀川は危ないと親からいわれていたので泳ぎませんでした。お正月も楽しみであったけど、小正月の“大とんど”が又楽しみでした。村中からワラをもらって来て、青竹を3本組んで、ワラで囲って、燃やし、正月用品を焼く習わしがあって、その火種をもらって帰り、各家で小豆のおかゆを炊くのです。午前3時頃になると、村中を「大とんど、しまっせ−」とふれて廻るのが子どもの楽しみでした。とんどがすんだら八幡参りです。京都の石清水に歩いて参ってかんざしを買って帰ります。帽子のぐるりに20本もさして帰り、そのかんざしをもらった人が、厄除けになるというので、帰る道中娘さん達にもらわれてしまったものです。
 春は彼岸だんご、お盆のぼたもち、桃の祭りにこんぶ巻き、淀川のフナを取って1ケ月位天日に干して、こんぶに巻いて長い時間炊きました。秋は枚方の菊人形、春は杏里の桜見物
等が楽しみで、農業は厳しかったが、のどかな村でありました。

「広報しめの22号」より



仁和寺のむかし

    キツネもいました仁和寺の里
              中村甚之助 野岸嘉一郎 樋口宗五郎 北川富造 阪口馨(詩) 

河内の国茨田郡第三大区三小区学一番組仁和寺、明治維新前までのこの地の呼び方です。
昔、ここ仁和寺は、京都の仁和寺の寺領でした。宇多天皇が京都仁和寺を造営された時、しばしば狩で来ていたこの地をご料所とされました。その頃の京都仁和寺は、今の十倍位の大きさでお坊さんも沢山いたので、お米を献上していたそうです。
 交通は淀川主体で、三十石舟や蒸汽船が行きかい、伏見から天満まで西風が吹けば帆をかけて、列をなして上り下りしていました。私ら子どもの頃のお正月は、堤防の上をゲタをはいて、石清水まで歩いてお参りに行ったもんです。堤防は今より低く、京街道といって、国道でした。きれいに色を塗った乗り合い馬車があって、家や出店が並んでいて、どんぐりあめや、でっちようかんを1銭で買ったもんです。わらじを履いて、弥次さん喜多さんのような姿で行きかう人で賑わいました。大正の始め頃のことです。
      流れも深く あの淀川に 行きかう船や 枚方かぎや
      白い蒸汽船 しぶきをあげて かみは伏見よ くだりは天満
      ここは仁和寺の 淀川渡し さおさす船頭 むこうは鳥飼
      ゆれる小船の 想い出はるか
 延宝2年、仁和寺の堤防が切れて、仁和寺神社が流されました。今のお宮さんの位置は流れついた場所で、元のお宮さんは、八中の前の田の中に残っています。今もそこを“本宮”と呼んでいます。子どもの時分は、本宮から今の宮さんに夜キツネが走っていました。親がよう言ってました。「今夜は寒いねんな、キツネがコンコン泣いて走っている」と。私もようコンコン聞きました。
      三百年の むかしの仁和寺 淀川洪水 堤が切れて 氏神様が
      流れて消えた 翌年村人 カを合わせ 広い境内 神社を建てる
      くすの大木 歴史を語り 秋は鎮守に 太鼓がひびく
 農業は、米の他に菜たねや麦を作っていました。菜の花の頃はそれは美しいものでした。“菜の花や月は東に日は西に”これは蕪村がこの辺りを見て詠んだものです。その他、綿作りやかいこを飼ったり機織もしていました。
 家の前の川に、雨の後大きなこいやうなぎが上がって来てよく取ったものです。その頃の魚はおいしいものでした。ご飯炊くのも、顔洗うのも、この川の水で生活していました。少し上流では肥たんごを洗ったりしたものです。明治36年、コレラがはやって沢山の人が死にました。その時、各丁に井戸を作りました。又、米を水害から守る為に堤防の高い所へ倉を作って、家の前の川から舟で運んだものです。それ位、そこここの川は深かったのです。

「広報しめの23号」より




葛原のむかし
     楽しかった月見のいもつき
            浅田秋造 北門ハルコ 喜多昇 小西秋太郎 浅田秋造

 葛原の語源は、まだ耕地の発達しなかったころ、クズが生い繁っていた野の意味で、桓武天皇の皇子に葛原親王(かつらはらしんのう)がいて、この親王の領地であったのではないかともいわれています。
 明治初年の村明細帳によれば、当時の家数36軒、内2軒寺院、人数117人、牛6疋、馬無しご座候、とあるように小さな静かな村でした。
 葛原には今の警察署にあたる代官所がありました。キリシタンの取り締りで発見されたものや、代官所で必要な品物や古物書が今でも沢山残っていて、昔使用した駕篭も最近まで屋敷内に吊ってありました。国の行政によって、それまで別々であった葛原・点野の神社が池田の菅原紳社に合併されて、ご神体三体お祭りしてあります。戦前までの菅原紳社のお祭りはなかなか賑やかで、境内にいろいろな店が出て、のぞきからくりを5厘で見るのが楽しみでした。父親がしし舞いをして「生きたようなしし舞いをしはった。」とよく言われました。
 米作りで生活を立てていましたが、農閑期に作る綿は毛足の長い良い綿がとれました。お正月には綿が良く取れるのを祈って、柳の枝にもち花をつけて飾りました。又、出かせぎにも行きました。明かりに使う行燈には菜種油、ランプは石油を使っていましたので、油売りがやって来たり、魚屋、種屋、下駄屋、アコーディオンを弾いて、おいちにの薬売り、キセルの通し、いかけ屋等の行商が来ました。
 一般に貧しくて、学校へ行くのに、ランドセルは一人だけで、ほとんどフロシキでした。雨の日はどろんこに足がもぐるので、はだしで登校して、学校で洗いました。長ぐつが出たのはしばらく後で、良い物はありましたが、買えませんでした。お弁当も1日、15日は梅干し1つの日の丸弁当と決まっていて、カツオぶしに醤油をかけたお弁当なら上等で、卵焼きなんて、持って行けませんでした。ご飯も麦ご飯で、お米を作っていても、供出で手もとに残るお米は少なかったので白いご飯はご馳走でした。メリヤスパッチも高くて、なかなか買えず、大阪などに行く時は、持っている人に借りて、長い着物を尻からげにして、出かけました。遊びは進撃、かくれんぼ、けんば、木登りなど、はだしで遊びました。秋のお月見の時は、家々でとろいも(里いも)の湯がいたものをお供えしました。子ども達は、よその家
のいもを長い棒でついてそっと取りました。又、たぬきや白ぎつねが住んでいて、祖父母がだまされた話をおもしろおかしく語ってくれるのを聞くのが楽しみでした。
 貧富の差があって、葛原の中では、羽織を着て歩くことが許されず、他へ出かける時は村を出てから着たと聞いています。今では生活も豊かになりすっかり変わりましたが、物事に耐える辛抱はどんな辛抱でもして来た葛原の人々でした。

「広報しめの24号」より