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茨田堤(まんだのつつみ)

茨田堤碑(まんだのつつみひ)

『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが次のように記載されています。

この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。

さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうしてつながりました。
しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら偽りの神だから、私は人柱になることはできない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに浮き上がり、下流へ流れて行ってしまいました。

衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。

仁徳天皇13年(『日本書紀』)には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営されたことが記されています。

『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人のことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、完成することができたのでしょう。

淀川のそばに「太間」と書いて「たいま」と読む地名があります。これは「絶間」がなまってこのようによばれるようになったといわれています。当地では、この難工事の物語が伝説として語り継がれています。

昭和49年(1974)に「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上に碑が建てられました。淀川の方を向いた表面に「茨田堤」と彫られ、その脇には「まむたのつつみ」と添え書きされています。

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更新日:2016年4月21日